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日光一文字

更新日:2022年10月2日



黒田家に伝来する家宝のなかに「日光一文字」という太刀があります。刃長は二尺二寸四分(67.8㎝)ほどで刀としては短いながらも荘厳な姿をしています。鎌倉時代中期に備前国福岡一文字派の刀工によって作られた極めて優れた太刀です。


現在は、福岡市博物館に収蔵されており、毎年2月頃に期間限定で公開されています。


久しぶりの更新となりました今回のブログでは、この「日光一文字」が黒田家に伝わった経緯を追いかけてみます。



目次



1. 秀吉と北条氏の確執

中国・四国・九州と次々に平定した秀吉にとって、天下統一に向けた総仕上げとなったのが小田原城での北条氏との決戦でした。


秀吉は天正16年(1588年)に後陽成天皇を自らの城である聚楽第(じゅらくてい)に招く聚楽第行幸を実施し、全国の諸大名にも列席を命じました。天皇の面前で諸大名に忠誠を誓わせることで自身の権力を誇示するとともに、秀吉に臣従するかどうかの一種の踏み絵のような形となりました。徳川家康、前田利家らの諸大名が供奉するなかで、北条氏政・氏直親子は上洛することなく、この行幸に列席しませんでした。


これにより秀吉に目を付けられた北条氏ですが、さらに小田原城攻めの口実を与えるような決定的な事件を起こします。

天正17年(1589年)10月、北条家当主氏直の叔父である氏邦が統治し、その配下で上野国の沼田城代であった猪俣範直が真田昌幸の治める名胡桃(くるみ)城を奪ってしまうという出来事が起こりました。

元をただせば、軍事的要衝である沼田城は真田家の領地であり、徳川-北条の領土争いが和睦をするなかで、秀吉の調停により、北条氏に引き渡すこととなり、その代わりに名胡桃城だけは真田の領地と認められた経緯がありました。


2.小田原征伐

これをきっかけに、天正17(1589年)年11月に秀吉は5ヵ条からなる宣戦布告状を突きつけると、天正18年(1590年)3月には総勢21万あるいは22万ともいわれる大軍を率いて小田原城に向かいます。その中には黒田官兵衛・長政親子の姿もありました。


秀吉との関係悪化を察した北条氏側も堀と土塁で城下町をすっぽりと囲い込む全長9キロにもおよぶ総構と呼ばれる大外郭を構築するなど防衛強化に努めていました。


秀吉軍は北条氏の支城を潰しながら小田原城へと向かいます。大激戦を繰り広げながら、数で勝る秀吉軍は北条氏の堅固な支城を攻略していきます。しかし、秀吉方の犠牲も多く、山中城への突撃では、一柳直末を失います。

この時の討ち死にを報告したのが官兵衛で、秀吉は3日間も口をきかなかったというほど悲しんだといいます。官兵衛は、その時わずか1歳だった直末の子の松寿を引き取り、後に黒田姓を与えています。松寿は官兵衛の妹の子にあたりました。


秀吉軍は、そのまま箱根湯本に到着すると、いよいよ小田原城攻めを開始します。

これは、三木城合戦や備中高松城の水攻めなど、数々の城攻めを行ってきた秀吉の集大成ともいえる戦いになりました。兵力では圧倒的に勝る秀吉軍でしたが、堅固な小田原城への力攻めは回避し、兵糧攻めを選択しています。それは、できるだけ犠牲を払わずに敵を攻略する秀吉と、その軍師である官兵衛の信条ともいえる攻め方でした。


秀吉は長期戦となることを見越して、小田原城から3キロほどに位置し、小田原全体を見下ろす笠懸山に陣城を築き本陣を置きます。臨時の城であるにもかかわらず、西国から職人を呼び寄せて石垣を築き、天守までも建造しました。

関東で最初に作られた総石垣の城であったともいわれ、それを一夜にして完成させたように演出したことから、石垣山一夜城ともいわれます。

突如として豪華絢爛な城が現れ、淀君や千利休、能役者などが呼ばれて茶会・宴会を楽しむ姿を見せつけられた北条氏側の兵は大いに戦意を削がれたといいます。


3.官兵衛と日光一文字

堅牢な小田原城はそれでも3ヶ月ほど持ち堪えましたが、松井田城、岩付城、鉢形城、韮山城と次々と主要な支城が陥落すると、いよいよ孤立しました。ここで決着をつけるために登場したのが官兵衛です。


この時、小田原城内では重臣の松田憲秀(のりひで)の裏切りなどもあり、疑心暗鬼が渦巻く不安定な状況となっていました。そこで秀吉は開城勧告という、とどめの一手を投じます。

官兵衛はあらかじめ北条氏政・氏直に酒2樽と肴の差し入れをし、驚くことに刀も持たず丸腰の姿で小田原城に入城し、開城勧告を行いました。官兵衛の説得に対して父の氏政は徹底抗戦の態度を示しますが、子の氏直は軟化し、自分の命と引き換えに城兵の命を助けて欲しいと降伏を申し入れてきます。


こうして、最大の敵として残っていた北条氏を滅亡させた秀吉は、いよいよ天下を手中に収めることになりました。

そして、この時に氏直から返礼の品として北条家に家宝として伝わる「日光一文字」の太刀、「北条白貝」、歴史書である「吾妻鏡」が官兵衛に贈られました。



江戸時代に入って、8代将軍徳川吉宗の命により作られた日本の刀剣書である「享保名物帳」にも「名物日光一文字は日光権現に納まってあったものを北条早雲が拝領し所持して代々氏政まで伝えられた重宝であったが、小田原陣の時、黒田如水への和談のお礼として、東鑑と法螺貝とともに贈られたものである」という記載があります。


日光一文字は現在でも「一文字派の作の最高傑作の一つ」として国宝に指定されていますが、当時の北条家にとっても最高の宝物でありました。


また、官兵衛が文学に造詣が深いことを承知して貴重な吾妻鏡を贈ったのかもしれません。これには並々ならない氏直の感謝の意が込められているといえます。


4.小田原城開城後のエピソード

小田原城の開城後に北条氏の重臣、松田憲秀にまつわる官兵衛と秀吉のこんなエピソードがあります。


憲秀とその長男の政尭(まさたか)は元々、徹底抗戦を主張した人物でしたが、内応工作により秀吉側に寝返っていました。一方で次男の松田直秀も裏切りを持ちかけられていましたが「代々世話になった北条氏を裏切るわけにはいかない」とし、父と兄の内応を北条側に密告していました。


憲秀と政尭は行動を起こす前に北条氏に捕えられ、政尭は死罪、憲秀は城内に軟禁された状態で開城を迎えました。


開城後に秀吉から「松田を誅せよ」との命が官兵衛に下ります。内通を約束した憲秀は助命、計画を失敗させた直秀は死罪という当然の判断でした。

ところが官兵衛はなんと直秀ではなく、憲秀の方を処刑してしまいます。

理由を聞かれた官兵衛は「松田を誅せよ、と言われたので、てっきり裏切り者の憲秀かと思い、間違えた」と答えました。

落城寸前に主君に背いた憲秀より、最後まで主君を裏切らなかった直秀の方を忠義の者として機転を利かせたのです。

その時の感情で処刑を命じた秀吉でしたが、この官兵衛の行動には納得したといわれています。


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