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光雲神社由緒・歴史

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福岡市中央区、中心市街(天神)の西、福岡城址の北に荒津山と呼ばれた山があります。
この山は、福岡県で唯一『日本さくら100選』として指定されている福岡県管理の西公園です。
春には、山まるごとが見事に桜色に染められ1300本もの桜が咲き誇り、その西公園の山頂付近にあたる荒戸山中央に光雲神社は鎮座しています。

黒田官兵衛孝高(如水)と黒田長政の両公をお祀りし、官兵衛公の法名「龍光院殿」と長政公の法名「興雲院殿」から一字ずつを採り「光雲(てるも)神社」と名付けられました。

慶長5年、筑前国主として藩祖である二公が移封されると、当時の警固村に舞鶴城を築き、大濠を掘り、那珂川を境として福岡と博多の町づくりを行い、徳川政治300年の間、民意を尊び、産業を奨励し、今日の福岡市の繁栄の礎をなしたことは両公の遺訓によるところが実に多大です。
また、福岡という名称は黒田家ゆかりの地である備前国邑久郡福岡(岡山県瀬戸内市長船町)の名前から取ったもので、両公が名付け親であることも知られています。

略 記 一

黒田両公の入国

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慶長5年(1600年)、黒田長政は筑前52万3千石の太守として名島城へ入国しました。

関ケ原の戦いに如水と共に徳川軍に味方し、多大なる軍功をあげたことによるもので、外様大名としては破格の恩賞でした。

天下分け目の戦いの後、敗軍の将である石田三成が家康の陣中に引き出されましたが、長政ひとりが「治部殿(三成)、勝負は武士のつね、お気の毒に存ずる」と縄目の上に衣をかけていたわりました。

この時、三成が長政の耳に口を寄せ「長政殿、このたびの働き、あっぱれ。恩賞のあかつきは筑前(現在の福岡県あたり)を所望されよ。筑前一国を治められれば全国を支配できましょうぞ。」と教えたと伝えられています。
三成こそ、かつて太閤秀吉の「町割り」の時の工事奉行であり、筑前の地の重要性を誰よりも熟知していたとされ、巷説はこの間の事情を興味深く伝えています。

福岡城築城

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略 記 二

それまで小早川隆景の居城だった名島城(福岡市東区)。乱世には機能したものの、太平の統治にとっては東に偏りすぎているとみた長政は、新しく西方に築城を思い立ちました。自ら住吉、箱崎、荒戸を視察した後、那珂川郡警固村の福崎に白羽の矢を立てます。

 

城郭は福岡の地形を見事に利用した大規模な物で、東は那珂川、西は金屑川を境に北は博多湾、西の荒津の入江を大きな堀(現在の大濠公園)としました。今の春吉三光町あたりの処にあった三つの川口(数馬門)から取水した水量を、旧佐賀藩鍋島公の苦役を頂き、肥前堀と呼ばれた幅 60~70m位の壕を直線に西へ掘り込み、赤坂門と呼ばれる福岡城の門の所で南北に分け、今の明治通りと国体通りに平行に掘って城西部の大堀へと結びました。今の天守台あたりにあった、小高く丘陵帯を成していた赤坂山を削り、その土で荒津山(現在の西公園)の岬の入江と長浜の間を埋め立て、黒門~伊崎を結ぶ水路(黒門川)を造って人工的に水の環流を計る水を活かした大土木事業を7カ年の歳月で行いました。これにより四面水に囲まれた日本でも屈指の難攻不落の城となりました。
本丸は、昔の国立病院付近、平和台球場一帯には家老、馬回り役など重臣屋敷が並んでいました。

慶長12年(1607年)に完成したそれは天守閣も無く、城というより城主を取り巻く重臣クラスの団地と呼ぶ方が相応しいものでしたが、その天衣無縫ぶりに如水、長政親子の和戦両用の妙計が秘められ、戦国きっての築城名人である加藤清正も舌を巻いたといいます。

英知の洞察

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「壮麗」よりも「堅固」をむねとして、周囲の石垣積みもわずかに見付三門(北側の上の橋、下の橋、南側の追い回し門)の両袖だけを低い土塁でつないだ城。

一見無防備に見えながら、戦に備える周到な用意に次の例があります。
現在も西鉄グランドホテル近くに見られる急カーブが、築城法にいう四折枡形(よつおりますがた)町割りの仕掛けの名残。四つ角をわざとギクシャクと食い違わせて、戦時に中心点の道路の一方を急造の家などで塞いでしまうと、突進してきた敵軍は、そのまま別の道に逸れて城下町に入れないトリックです。
また、海に面した寺院十五は、いつも兵站基地になったし、「老司の堰」を切って落とせば低地部は水浸しになって進入路を阻むことができました。
広々として八方くずれに見えながら、和戦いずれにも備えた福岡城の雄姿は、まさに時代の趨勢を洞察した英知そのものといえるでしょう。

略 記 三

黒田家の家紋

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黒田家の家紋は本来、丸に三橘でしたが、如水が後にこれを改め「藤巴」を創始したと言われています。
如水は、中国地方平定の最中に毛利方に寝返った荒木村重を説得すべく伊丹の有岡城に単身乗り込みましたが、説得に失敗し牢獄に閉じ込められてしまいます。

この幽閉中、藤が牢獄の棚を伝わって新芽を吹き出し、紫の花を咲かせ、如水に未来の明るい兆しを告げました。

その時の困難や苦しみを忘れないため「藤巴」を家紋にしたといわれます。
なお、如水の幽閉は約1年に及びましたが、この時、主君織田信長は如水が毛利方に寝返ったものと思い、人質として預かっていた息子の長政(松寿丸)を殺すように竹中半兵衛に命じます。

しかし、如水の盟友半兵衛は、長政を殺したと偽りの報告を信長にし、長政の命を助けました。この説話からも長政の幸運、強運ぶりを伺い知ることができます。

光雲神社の歴史

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・1768年(明和5年) 6代藩主継高が本丸天主台東側に藩祖長政公を祀る祠堂に「武威円徳聖照権現」と名付けて創建
・1773年(安永2年) 如水公を「水鏡権現」と名付けて相殿として祀る

・1822年(文政5年)長政公200回忌として盛大なる神事に加え、福岡城の本丸御殿において能が行われる
・1872年(明治5年) 黒田家が東京に移転されるに及んで有志等が懇願し、小烏吉祥院跡(現在の警固神社付近)に本丸天守台下の祠堂より遷座
藩主長溥公の許可を得て御両公の神号を合祀し「光雲神社」と改め、これにより村社として一般の民の参拝が出来るようになった
・1875年(明治8年) 筑前各郡区の総代より出願して県社昇格
・1896年(明治29年) 博多で行われた全国商業会議所連合会の開催の折、来福した金子賢太郎伯爵(福岡藩士)は、有志者と会し、光雲神社の西公園荒津山への社殿移転・改築案を提案
・1909年(明治42年) 小烏・光雲神社から西公園の現在地に遷座し、同時に如水公の300年記念大祭が盛大に斎行される
・1923年(大正11年) 長政公の300年祭が斎行される
・1945年(昭和20年) 戦災にて社殿・宝物殿等全てを焼失してしまう
 宝 物

 黒田如水像、黒田長政像(国宝・絹本着色)
 大水牛の兜(長政公使用)、一谷の兜(長政公使用)
 合子の御冑(如水公使用) その他資料類多数

・1966年(昭和41年) 新社殿が落成し、同時に別表神社に加列され現在に至る

光雲神社の概要

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所在地 〒810-0061 福岡市中央区西公園13番1号

祭 神 黒田官兵衛孝高(如水) 法名 龍光院殿、黒田長政 法名 興雲院殿

例祭日 春季大祭 4月20日、秋季大祭 10月4日

摂社 堅盤神社(黒田重隆公、職隆公、忠之公、阿津姫を祀る)

末社 荒津神社(神武天皇、大物主神、金毘羅神を祀る)

末社 日吉神社(大巳貴命、国常立尊、正哉吾勝尊、国狭槌尊、伊弉冊尊、瓊々杵尊、惶根尊を祀る)

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