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光雲神社のご祭神

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黒田官兵衛孝高(如水)公

人並外れた戦術と交渉力で豊臣秀吉を天下統一へと導き、生涯無敗の稀代の軍師といわれた黒田官兵衛孝高。
官兵衛は天文15年(1546年)、播磨国の姫路に生まれました。幼い頃から弓や馬術に励み、熱心に和歌や文学を学ぶなど教養を身につけた官兵衛は22歳で父、職隆の家督を継ぎ小寺氏の家老として政治を助けます。
早くから織田信長こそが将来を頼むべき大武将であると見通し、播磨地方への進出を導いたと言われます。そして、中国地方攻略の大将であり、その後の主君となる羽柴秀吉と出会うことになります。天正10年(1582年)、本能寺の変により信長が討たれると備中から京都まで引き返し、秀吉が仇討ちを果たした「中国大返し」を成功させます。この秀吉の天下統一の足掛かりとなる一世一代の大勝負にも官兵衛の緻密な戦略が隠されていました。
九州平定など秀吉の統一事業に功を立てた官兵衛は、天正15年(1587年)には豊前12万石の領主となります。間もなく官兵衛は「如水」と号して隠居の身となり、息子の長政に家督を譲りますが、その後も秀吉の側近として小田原城攻めなどで功績を立てました。関ケ原の戦い以降の晩年は福岡で過ごし、慶長9
年(1604年)に京都伏見でその生涯を終えました。

イラスト制作:アートモチダダイスケ

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黒田長政公
戦国随一の智将、黒田官兵衛孝高を父に持つ黒田長政。
永禄11年(1568年)に誕生した長政は幼少期を織田家の人質として羽柴秀吉の近江長浜城で過ごしました。秀吉と正室ねね夫妻には我が子のように可愛がられて育ったといいます。中国攻めで初陣を果たした長政は、賤ケ岳の戦い、小牧・長久手の戦いなどに従軍。天正17年(1589年)には、父孝高から21歳の若さで豊前中津12万石余りの家督を継ぎます。
文禄元年(1592年)から行われた文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では朝鮮半島に渡海し、碧蹄館の戦い、蔚山城の戦いで武功をあげました。
豊臣秀吉の没後、慶長5年(1600年)に起きた関ケ原の戦いは、獅子奮迅の活躍をみせ、東軍の勝利に貢献しました。関ケ原の戦いでの一番の功労者ともいわれています。
その功績として筑前一国52万3千石余りを拝領、慶長6年(1601年)に入国し、福崎の地に福岡城を築城しました。その後、初代長政から12代長知まで、福岡城は福岡藩黒田家の居城として領内支配の中心地となりました。
なお、現在の「福岡」という地名について、官兵衛・長政の両公が名付け親であることも周知のことであります。

イラスト制作:アートモチダダイスケ

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堅磐神社のご祭神

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摂社 :堅磐(かきわ)神社の御祭神 黒田重隆(しげたか)公、職隆(もとたか)公、忠之(ただゆき)公、阿津(厚/あつ)姫

 

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荒津神社のご祭神

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末社:荒津(あらつ)神社の御祭神 神武天皇(じんむてんのう)、大物主神(おおものぬし)、金毘羅神(こんぴらしん)

末社 日吉(ひよし)神社の御祭神 大巳貴命(おおなむちのみこと)、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、正哉吾勝尊(まさかつあかつのみこと)、国狭槌尊(くにのさづちのみこと)、伊弉冊尊(いざなみのみこと)、瓊々杵尊(ににぎのみこと)、惶根尊(かしこねのみこと)

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