(黒田重隆公、職隆公を祀る光雲神社摂社の堅盤神社)
近江の琵琶湖北東に賤ケ岳(滋賀県長浜市)という山があります。
ここは歴史ファンの方々には馴染み深い、天正11年(1583年)に羽柴秀吉と柴田勝家による決戦が行われた「賤ケ岳の戦い」の戦場です。
その山麓にある近江国伊香郡黒田村が黒田氏発祥の地と伝えられています。
「黒田家譜」によると黒田氏は宇多源氏佐々木氏の流れで、宇多天皇の末裔だった佐々木宗清が鎌倉末期に黒田村に住みつき、その地名を姓としたとされます。
宗清から数えて五代目の高政の時、永正八年(1511年)に近江の守護職だった佐々木氏に従い岡山で戦ったものの、六角高頼の命に背いて抜け駆けした等の軍令違反があったということで将軍の足利義稙(足利義尹)の怒りをかい、これで近江国を追われることになった高政ですが、これが黒田氏の苦難の始まりとなりました。
失意の中、高政は親族を頼って備前国邑久郡福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)に流れてきたとされます。
高政はこの備前国福岡で生活に窮し「玲珠膏(れいしゅこう)」と名づけた目薬の製造販売を始めます。
福岡一文字派など刀鍛冶が拠点としていたこの地域では、飛び散った鉄粉で目を傷めるなど、目を病む者が多かったそうです。
「玲珠膏」は代々黒田家に伝承された家伝薬ともいいますが、高政が傷薬から思いついたものともいわれます。
それは現在のような液状のものではなく、目薬の木の樹皮や葉を煎じて得たエキスを練り状にしたもので、貝殻におさめられていました。
高政はこの目薬で生計をたてましたが、時運には恵まれず、大永三年(1523年)に福岡で世を去りました。
高政のあとを継いだ重隆(官兵衛の祖父)も家伝薬の販売で暮らしていましたが、浦上則宗という豪族の侵入により福岡の地を追われて、播磨国(現在の兵庫県)の姫路に逃れます。
そして、置塩城守護の赤松晴政に仕えた重隆ですが、晴政に失望して再び禄を捨て、浪人へ戻ることになりました。
(光雲神社境内にある目薬の木)
ところが、ここで重隆は思いがけない幸運に恵まれます。
土地の大百姓である竹森新右衛門の家に住まわせてもらっていた重隆は、「玲珠膏」が縁で廣峯神社(兵庫県姫路市)の神主である井口太夫と知り合います。
そこで「神社では播州一帯に御札を配って歩く、その時に一緒に持っていける薬があると良いのだが」という話を耳にし、重隆が閃いたのはいわゆる御札と目薬の抱き合せ販売です。
氏子や信徒に販路を広げた「玲珠膏」は、良く効く目薬という評判も広がり、とても繁盛しました。
これにより、重隆は膨大な財を成し、黒田家隆盛の財政基盤を作ることに成功しました。
(写真は廣峯神社 ご提供)
重隆が備前福岡に居たころ、ある日夢の中で氏神である佐々木大明神が出現し、「播磨国姫路に廣峯神社というご利益のある神社があるので、お参りに行くように。」とのお告げがあったという逸話も残されています。
また、新右衛門は手にした莫大な金で金貸しをすることを重隆にすすめました。
利息は年二割、米も貸し与え、借米者はその分だけ働いて返してもよしとしました。
特に男の子を持つ者は、その子を重隆の元で働かせることを条件に惜しみなく貸してやったので、奉公人はたちまち二百人を超えるまでに膨れ上がりました。
新右衛門は家主でありながら、自らも進んで重隆の家来となっている点を見ても、並の百姓ではなく、先見の明に優れた人物であったことでしょう。
二百人もの家来を抱えた黒田家は城や砦を持ったわけではありませんが、もはや立派な小豪族といってもよい存在となっていました。
そこで重隆は、天文十二年(1543年)に十九歳となった嫡男の職隆(もとたか:官兵衛の父)に家臣団を与えて播磨の豪族・香山重道を襲撃します。
職隆は見事に香山重道を討ち取り、首を手土産に兼ねてより香山氏と敵対していた御着城主の小寺政職のもとに出向きます。
政職は大いに喜び、職隆を客将として迎えました。
その二年後に政職は、明石城主明石正風の娘を養女とすると職隆に嫁がせて、小寺家の家老となります。
この時に小寺の姓と諱を与えて小寺職隆と改め、姫路城が与えられました。(ここでは分かりやすく『職隆』の名で統一しましたが、これまでは「甚四郎」と名乗っていました。)
ここまでが、黒田家の発祥と初期の繁栄の主なストーリーとなります。
その後、この姫路城で官兵衛が誕生し、天才軍師として戦国の世に大きな足跡を残していくことになります。
黒田官兵衛の生涯についても今後、ブログで紹介していきたいと考えています。
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