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荒戸山東照宮


現在の西公園の地は、かつて「荒津山」あるいは「荒戸山」と呼ばれ、埋め立てが進む前には博多湾に突き出した小高い丘となっており、当時から海を望む風光明媚な場所であったそうです。

このような万葉歌碑も残されています。


「神さぶる 荒津の崎に 寄する波間無くや妹に 恋ひ渡りなむ」


736年(天平八年)に新羅国に派遣された使節一行だった土師稲足(はじのいなたり)が往路で詠んだ歌で、『神々しい荒津の崎に寄せる波のように、絶え間もなく妻を恋いつづけることであろうか。』という意味です。


光雲神社が西公園(荒津山)の地に遷座したのは1909年(明治四十二年)であり、それより以前、江戸時代には現在の光雲神社の場所に「荒戸山東照宮」がありました。


この東照宮は筑前国福岡藩二代藩主黒田忠之(くろだただゆき)公の時代、1650年(慶安三年)から1652年(承応元年)五月まで三年かけて荒津山中腹に建立されると、東照宮の祭祀を司るため、比叡山から招いた豪光法師によって開かれた高照山松源院福祥寺も東照宮に隣接する形で造営され、家康公が駿府城で死去した四月十七日が東照宮の祭礼の日となりました。


「黒田続家譜」巻六にはその様子が記されています。


・慶安三年

忠之四十九才。荒戸山に東照宮を建立し奉るべし江戸に言上。


・慶安四年

大将軍家光公御逝去。


・承応元年

ご神体ハ江戸より来らせ給ふ。五月十七日ご神体を新殿に納め奉り、ご遷宮の儀式厳重なり。来り観る者おびただし。其造営人力土木の功労甚だし。忠之平生公儀をおもんじうやまひ給う故、かかる榮作をなして恭敬し奉られける。神殿・拝殿尤も美麗なり。玉垣瑞籬・神厨(みくりや)有。仏堂有。廻廊長くひろく石段高し。諸品造作残る所なく皆備れり。山の麓外のかまへより高き石垣の下までやうやくのぼりゆくに、其間坂長く階多く樹林陰翳して奥物ふかく、御祠は又阿ふぐばかり成石階の上、いと高き処にたたせ給へば、神威増々尊厳なり。其後月ことの十七日にハ、国主ミつから参拝し給ふ。御宮の側に宮司坊を置て祭礼を執行ハせらる。高照山松源院福祥寺とせらる。


木々が鬱蒼と茂る坂道の先に石段があり、その奥には神殿・拝殿・玉垣瑞垣・神厨・仏堂など、尊厳なたたずまいの御社があったようです。


高照山松源院福祥寺も壮麗を極めたといいます。

(筑前名所図会 巻一 福岡 荒戸山東照宮図)


これだけの人力・財力を割き三年もの年月を掛けたならば、福岡城の天守を再建することも可能であったでしょう。


忠之公もその思いを胸に秘めていたかも知れません。


しかしながら当時の時代背景を振り返ると、三代将軍家光の元で徳川幕府権力は強化され天守再建は既に不可能となっていました。


逆に幕府に対し忠誠を誓うことで福岡藩を安泰にする必要がありました。


それゆえ荒津山に東照宮を懇請したと考えられます。


この時代、福岡藩に限らず各地の諸大名が同様の理由で城下に東照宮を建立しました。


その後毎月十七日には藩主自ら参拝し、毎年四月十七日の例大祭には筑前国中の老若男女、また隣国からも多くの参拝者が集まりました。


1868年(明治元年)、明治維新が起こると、東照宮、松源院、源光院(寛文九年に建立)ともに幕府を崇敬する施設として神仏分離により廃されました。


東照宮のご神体「東照大権現座像」は警固神社(福岡市中央区天神)に移され、現在は福岡市の文化財に指定されています。

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