桜の名勝地に鎮座
万葉時代からの霊地
福岡市の中心市である天神の西、福岡城址の北に荒津山と呼ばれた小高い山に光雲神社があります。
その歴史は古く、遣唐使や遣隋使の見送りをこの地でしたことから、万葉集にも荒津での別れを惜しむ歌が残っています。
この地は現在、西公園として管理され、福岡県で唯一『日本さくら名所100選』として指定されるなど、春になると山全体に植えられた1300本もの桜が見事に咲き誇ります。
市民の憩いの場
海抜50mの好立地にあるため境内からは南には市内を一望でき、北は博多湾を悠然と見渡すことが出来る景観地。光雲神社の境内を含む西公園は福岡市中心部では他に類の無い憩いの場です。
大水牛兜の手水舎
慶長5年(1600年)関ヶ原戦に徳川方の先陣を承った黒田勢は、旧岐阜市の東、合渡川に進軍します。連日の雨で増水していたが家臣後藤又兵衛の進言で、夜中、強行渡河を決行。ところが、長政公の乗馬が先頭で足を滑らせ、危うく河中に転落の刹那、川辺に立つ柳の枝に水牛の兜の緒がかかり幸運にも難を避けることを得ました。この勢いに黒田勢の士気があがり関ヶ原天下分け目の戦いの勝利に大いなる役割を果たすことができました。
光雲神社境内入口右側の水牛の兜像は、この長政公の幸運にあやかり篤志により制作、奉献されたものです。
母里太兵衛像と目薬の木
母里太兵衛は黒田二十五騎の一人であり、知勇兼備の武将で主君長政公の命を受けて福島正則公に遣わされた時、禁酒の太兵衛が、なみなみと注がれた大杯の酒を自若として飲み干し、太閤秀吉より拝領の福島家、家宝「名槍日本号」を持ち帰った話は有名であります。
なお、像の下部には全国で親しまれている「黒田節」の歌詞が刻まれています。母里家21代、嘉道氏外有志が主君長政公の有名な水牛の兜と光雲神社の社頭を固める守護像として奉納されたものであり、像の後ろには黒田家伝来の目薬の木がもあります。黒田官兵衛(如水)の祖父重隆が目薬の木を煎じた家伝の目薬で財を成し、黒田家の礎を築いたと伝えられています。
二の鳥居
明治8年(1875年)建立、二の鳥居。笠木と島木の構造は、
肥前鳥居と同じ三分割方式で、この地に光雲神社が遷座する以前に建立されたものです。
石造りの堂々とし佇まいの大鳥居が、神域の入り口で参拝者の皆様を迎えてくれます。
一の鳥居は参道を南に300Mほど下った場所にあり、大正11年(1922年)に建立されました。
五十二段の石段
光雲神社から南に延びる参道には、五十二段の長い石段と三段の短い石段があります。
この石段は関ケ原の戦いに東軍につき、大きな戦功を挙げた黒田長政が、徳川家康より筑前五十二万三千石という大封を封ぜられた栄誉に因んだものです。
光雲神社交通案内
■福岡市地下鉄 大濠公園駅より徒歩14分
■西鉄バス 湊郵便局前バス停より徒歩7分
■西鉄バス 中央市民プールバス停より徒歩9分
■西鉄バス 伊崎バス停より徒歩12分