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執筆者の写真光雲神社の神主

名槍日本号

更新日:2023年5月15日



戦国時代の主要な武器の一つである槍。数多くある槍のなかでも「天下三名槍」と言われる三本の高名な槍があります。


江戸時代に「西の日本号(にほんごう)、東の御手杵(おてぎぬ)」と並び称されていた二本に、いつしか「蜻蛉切(とんぼぎり)」も加わり、明治時代からは天下三名槍と呼ばれるようになりました。


そのなかでも黒田家と縁が深く、有名な「黒田節」の逸話にもなった「日本号」についてのエピソードをご紹介させて頂きます。


目次


1.母里太兵衛と日本号

槍術に優れた勇将として知られる母里太兵衛は、黒田家の重臣であり、黒田家臣精鋭部隊「黒田二十四騎」の一人に数えられます。


栗山善助とともに黒田軍の先手両翼の大将を務め、家臣の中でも特に重用されました。


また、太兵衛は大変な酒豪でもあったようです。


その母里太兵衛を一躍有名にさせたのが、「呑み取り槍」のエピソードです。


日本号は正親町(おおぎまち)天皇より、将軍の足利義昭に下賜され、その後、織田信長、豊臣秀吉を経て福島正則が拝領した名槍と呼ぶにふさわしい由緒正しい槍です。


主君長政の友人でもあった福島正則のもとへ使者として赴いた際のこと、長政からは失礼があってはならぬと、酒好きの正則に勧められても絶対に吞まぬことと念をおされていました。


案の定、正則はしつこく酒を勧め、「呑み干せば、何でも言うことを聞く」ともちかけ、それでも固辞する太兵衛に「黒田家の武士は酒も呑めぬ腰抜けか」とからんできます。


太兵衛は自若として大杯の酒を一気に呑み干し、名槍日本号を所望するのです。


正則にとってもかけがえのない大切なものであったはずです。酔っぱらっていたこともあるかも知れませんが、武士に二言はないと潔く太兵衛に与えます。



これが後世に「黒田節」としてうたわれる有名な逸話となりました。


光雲神社には日本号を携える母里太兵衛像が立ち境内を守護しています。


2.黒田長政と福島正則

しらふとなった福島正則は日本号を手放したことを大いに後悔します。

長政に泣きついてどうにか他のものと交換してほしいと申し入れますが太兵衛はこれに応じません。


これに気分を害した正則と長政の関係も悪化し、不仲となってしまいました。


この時に二人の間に入って和解を働きかけたのが竹中重利でした。重利は長政が幼少の頃、命を懸けて匿ってくれた竹中半兵衛の従兄弟にあたります。


二人の仲直りは成功し、和解の証として互いの兜を交換しました。長政からは黒田家のシンボルでもある「大水牛の兜」が贈られ、正則からは「一ノ谷の兜」が贈られました。


この一ノ谷の兜はかつて半兵衛が所用し、形見分けで正則に贈られたものです。


長政は天下分け目となる「関ヶ原の戦い」でこの兜を着けて参陣しています。

命の恩人である半兵衛への思いがあったのかも知れません。


3.作風

日本号は作者不明の無銘ですが、大和(奈良県)の金房(かなぼう)派の作と推定されています。

刃長は2尺6寸1分5厘(79.2センチ)もある長寸で、全長は10尺6分余(321.5センチ)にも及びます。

鎬地(刀身の側面)には1尺8寸(55センチ)の倶利伽羅龍(くりからりゅう)が彫り込まれており、力強さと美しさを象徴しています。


倶利伽羅龍とは不動明王の化身で、龍が炎中の宝剣に巻きつき、先端を飲み込もうとする様子で表現されています。

拵は鞘も柄も大粒の螺鈿(らでん)細工が施されています。


現在、日本号は福岡市博物館の所蔵品として常設展示されています。実物を見るとその美しさと大きさに圧倒されます。



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