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執筆者の写真光雲神社の神主

黒田二十四騎


黒田二十四騎とは、黒田官兵衛、長政を支えた家臣団で特に功績を残した二十四人の精鋭のことを呼びます。


戦国の世では個の力でのし上がった武将も多かったなかで、官兵衛は極めて優秀な家臣団を作り上げ、長政の代に至るまで黒田武士という強力な組織体制を築きました。


家臣統率術はどのようにして生まれたのか?

官兵衛の少年期から振り返ってみます。


官兵衛は少年の頃から武術より和歌や連歌にのめり込んでいました。母が歌道を嗜む文化人の家系であったことも影響したことでしょう。

教育係でもあった円満坊からは「武将であるなら和歌を極めるのではなく、弓矢や乗馬の練習をしなさい」とたしなめられることもあったようです。


後に官兵衛が戦場での功名について尋ねられた際にも次のように答えたといいます。

「人には得手と不得手がある。わしは若い頃から槍をふるって敵陣に駆け込み、あるいは刀を持って敵と渡り合うのは不得手であった。しかし、采配をとって一度に多くの敵を討ち取るのは得意であった。そのことはそなたたちもよくご存じであろう」


決して屈強な身体を有していたわけではない官兵衛にとって腕力ではなく知力で勝負をする。そして、育てた勇猛果敢な家臣団が、まるで自分の一部のように一騎当千の活躍をする姿は、まさに彼が追い求めた理想の形であったともいえます。


官兵衛の育て抱えた家臣団は、決して身体が頑強で猪突猛進型の武将たちばかりではありませんでした。勇敢な者もいれば、逆に思慮深く物事を慎重に考える知恵者もいました。


後に黒田家の筆頭家老にも列せられた栗山善助は、十五歳から官兵衛に仕え、最も信頼を置く側近の一人でした。

とても正直で実直な性格であったことから官兵衛に「善助」という通称を与えられています。

武勇・知略ともに優れていた栗山は十五歳での初陣以来、戦場での功名は十一度にものぼったといいますが、万事控えめで、胆力もあり、思慮深い男であったそうです。


また、関ヶ原のあと福島正則に使いをし、正則から酒を強いられて大盃を飲み干し、名槍「日本号」を持ち帰った逸話でも有名な母里太兵衛も黒田武士の代表格でしょう。

槍の名手でもあった太兵衛は、豪胆で実行力に富む猛将であったものの、勝気が強く猪突猛進するきらいがあり、まさに豪傑を絵に描いたような男でした。


そこで官兵衛はこの両者の長所を伸ばし、短所を矯正するために年長の栗山善助を兄、母里太兵衛を弟と定めて二人に義兄弟の契りを結ばせます。

そして太兵衛には「善助の言いつけは一切背いてはならない」と命じました。太兵衛はこの言いつけを生涯守り通し、善助の言うことだけは聞いたそうです。


このように官兵衛は、家臣たちの「組合せの妙」を巧みに活用していきます。


黒田家の文書のなかに「家中間善悪之帳」というというものがあります。

如水自筆とされるこの文書は、黒田家臣団の人間関係を実に詳細に記したものです。


官兵衛自らが家臣一人ひとりの交友関係を調べた記述があり、合戦における戦場やその他の仕事に誰と誰を組み合わせると、各々の家臣のためになるか?能率が向上するか?など日ごろから組織作りを心がけてきた様子が窺い知れます。


先ほどの栗山善助と母里太兵衛も典型的な例といえるでしょう。

組み合わせ方次第では、二人が三人分の力を発揮することもあり、また間違ってしまえばその逆もあり得ます。


黒田二十四騎には、官兵衛の優れた教育者としての能力や緻密な観察による組織化、統率力といったものが秘められていました。


これは現代における組織運営にもそのまま通じるもがあります。

黒田官兵衛は天才軍師であり、同時に人材活用のプロフェッショナルでもあったといえるでしょう。

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