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へし切長谷部

更新日:2022年5月23日



日本での「刀剣」とは武器としてのみならず、古来の伝統美術品として、また神秘的な霊が宿る信仰の対象としても崇められてきた特別な存在といえます。


また、古くから伝わる刀剣や武具にはその謂れや持ち主にまつわる壮大な物語が隠されているものです。歴史ファンにとってはそのストーリーを読み解き、時には想像を膨らませてみることも大きな醍醐味といえるでしょう。


既に「大水牛脇立桃形兜」についてブログの記事にいたしましたが、今後も黒田家伝来の刀剣・武具を中心にオリジナルのイラストも盛り込みながら投稿していきたいと考えています。


目次

1.信長から官兵衛へ

官兵衛の父である黒田職隆は播磨の小大名、小寺政職に仕え姫路城の城代を任されていました。官兵衛も二十二歳で家督を継ぎ、小寺氏の家老となります。


やがて、西には中国地方を支配する毛利氏、東には畿内を制圧した織田信長が迫り対立します。その間に挟まれた播磨の豪族たちは、生き残るためにこの二大勢力のどちらに付くべきか誰もが悩んでいました。


多くの豪族たちは西日本最大の勢力であり、昔からのよしみがある毛利氏に付くべきだと主張します。


ところが、若き家老の官兵衛だけは織田方に付くべきと強く主張しました。




桶狭間の戦い以降、日の出の勢いで昇り、天下布武を唱え政治の中枢である畿内を押さえた信長、一方の毛利輝元は祖父元就の遺産を相続しただけで勢いはなく、天下を獲る器ではないと言い切ったのです。


主君と豪族たちを説得した官兵衛は岐阜城に出向き信長に謁見、臆することなく、小寺家の心中と全面協力を約束しました。さらに播磨が中国攻めの玄関口として有利であると進言、しかるべき大将を播磨に遣わしてほしい、小寺の軍勢は毛利攻めの先方を務めますと協力を申し出ました。


これを聞いた信長は官兵衛の優れた判断力と交渉能力を認め、自身の愛刀である「へし切長谷部」を授けたと伝えられています。

そして、信長より中国地方攻略の大将に任じられたのが羽柴秀吉であり、官兵衛は後の主君との運命的な出会いを果たすことになりました。


官兵衛の情勢を見る目の確かさ、また今風に言えばプレゼンテーション能力の高さがうかがい知れます。


2.へし切長谷部の切れ味

「へし切長谷部」の名の由来は、信長が自分への無礼を働き台所へ逃げて膳棚の下に隠れた観内という名の茶坊主を棚の上から振り下ろしもせずに、ただ押し当てただけで棚ごと斬ったというもの。まるで豆腐を切るかのような凄まじい切れ味です。

この逸話はいかにも信長らしいですね。


3.作風

南北朝時代の山城国の名工・長谷部国重の作です。国重は名工といわれる正宗に学んだ十名の門下生の内の一人で「正宗十哲」といわれます。

もともとは刃長三尺(九一cm)近い大太刀でしたが、のちに信長が自分にちょうど良い寸法に合わせて、茎(なかご)の方から切り詰めて、刃長二尺一寸四分(六八.四cm)となりました。

磨り上げられたことで銘がなくなったので、官兵衛没後に本阿弥光徳(ほんあみこうとく)の鑑定を受け、長政の所持銘とともに金象嵌(きんぞうがん)が入れられています。

豪華な打刀拵は、「金霰鮫青漆打刀拵」(きんあられさめあおうるしうちがたなこしらえ)といい、同じく黒田家に伝承する名刀「安宅切(あたぎり)」の拵(こしらえ)に似せて、文化・文政期(一八〇四年~一八三〇年)に作られたものです。


昭和十一年に国宝に指定され、昭和五十三年に黒田家より福岡市に寄贈されました。

現在は福岡市博物館にて毎年一月上旬から二月上旬にかけて、約一ヶ月間公開展示されています。




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